義と利の戦い。普通に読めば楽しいのだろうが、やはり読み返しということと、この時代のことについて一通りの知識を得てしまったあとにおいてはこの本を読んでもあまり感動的なものはなかったというのが正直なところである。やはり主人公とするのは石田三成は小さいのだと思わざるを得ない。三成自身に対するエピソードが少なすぎるように感じる。むしろそれを取り巻く、東軍をはじめとする各武将の逸話それぞれのほうが面白いし、家康と正信の深謀遠慮のほうが味わいがある。しかし、義のために禄の足りない側がなんとか一矢報いるという醍醐味は面白いではないかと思う
p11.豊臣家の大名の多くは織田時代の同僚であるか、新付の大名たちであった。手飼いの大名といっても秀吉一代で飼い育てた者で、秀吉個人への愛情はもっていても、豊臣家という「家」に対する忠誠の習慣も伝統もない。このため秀頼に対してはもはや情義が薄いのである
p16.余談ながら、この田丸直昌は関ヶ原ノ役後本領を没収されている。が、死は与えられずただ越後へ追放され、ついで赦免された。晩年は甥にあたる蒲生秀行に寄食し、世を終えている。この寛刑は、徳川家の好意といっていい。徳川家の悪意は、むしろこのとき家康に加担した福島正則や加藤清正、加藤嘉明などのその後の跡目の始末に集中している。徳川家は、それらのいずれの家をも断絶せしめた。天下を取りおわったあとの徳川家の感情としては、かれらに好感がもてなかったのであろう
p55.旗は白地に、「大一大万大吉」の六文字が大書されている不思議な旗で、すでに豊臣家諸侯のあいだで有名なものであった。意味はない。ただこの六つの文字はいずれも事の発端と吉祥をあらわすもので、その点でかれの武運をおそらくは幸いするであろう
p136.家康は、戦国以来、諸大名がもてあましてきた本願寺の勢力を、この教如を用いることによって二つに裂こうと考えた。やがて戦後、京の本願寺の東側にいま一つの本願寺を建てることを許し、この教如を法主にしてやった。いわゆる東本願寺である。全国の本願寺の末寺は二つに割れ、西本願寺のほうには一万二千ヵ寺が残り、家康によって創建された東本願寺のほうに九千数百が集まった
p170.「秀吉はひとに利を啖わせることをもって天下の英雄豪傑を蕩した。かくて天下の人心は汲汲として利をのみ思い、茫々として道を思わぬ。利で得た天下は利が散ずるときにほろぶ。いまみよ、美濃の平野で内府のために勢子のごとく駈けまわっているのはすべて秀吉恩顧の大名たちではないか。彼らの精神は秀吉の遺産にすぎぬ」初芽は、惺窩のことばのあまりなすさまじさにぼう然としている
p309.秀吉の晩年、秀吉は無能暴慢のその甥小早川秀秋を移封させて三成を北九州百万石に封じようとしたことがある。が、三成は「京大阪から近いいまの佐和山でこそ御家の御用がつとまりまする。せっかく大領を頂戴しても九州ではそれが成り難うございます」といってことわった。(その百万石さえあれば)当然この戦場に三万以上の直轄軍を持って来れるであろう。西軍中核軍が三万であれば諸将はその武威をおそれ、三成のたてる戦略戦術に尾をふって服従してくるにちがいない。(すべては、力だ。十九万余石では、なんともならぬ)そのことのくやしさを、いまあらためておもわざるをえない
p398.「なぜ汝は」と、正則はさらにいった。死なぬ。切腹をせぬ。縄目のはずかしめを受けておる。とたたみかけたが、三成は蒼白の顔をひきつらせ、うぬに英雄の心事がわかるか、と、みずからをもって英雄とよんだ。「英雄たるものは最後の瞬間まで生を思い、機会を待つものである」と言い、かつ、これは三成が声を大きくして叫びたいところであったが、「人々の心の底を、この目で見て泉下の太閤殿下に報告し奉る。正則、心得ておけ」といった。要するに三成は戦いの渦中にあったがために、諸将の動きがさほどにはわからない。たれがどう裏切ったか、ということを見とどけた上で死ぬ。それを泉下の秀吉に報告する。かつ糾弾する。この病的なほどの、いやむしろ病的な正義漢は、そこまで見とどけた上でなければ死ぬ気にはなれなかった
p405.「大丈夫たる者が、義のため老賊を討とうとした。しかし事志とちがい、檻輿のなかにある。が、一世の事は小智ではわからぬ。いまのいま、どのような事態がおこるか、天のみが知るであろう。さればこそ眼前に刑死をひかえているとはいえ、生を養い、毒を厭うのである」
p412.如水にすれば心の底から領地などはほしくはなかった。一期の思い出に天下をとってみたかっただけであり、その思惑がはずれた以上、もとの楽隠居にもどりたい。事実、この男はこののち領内の隠居城にこもり、村童を相手にたわむれあそんで生涯を終えている
p417.如水のいおうとするところは、すでに豊臣家は世を担ってゆく魅力をうしなっている。秀吉の晩年、もはや大名から庶人にいたるまでその政権のおわることをひそかに望んでいたにもかかわらず、あの男はそれをさらに続かせようとした。すべての無理はそこにある、と如水は言いたかったが、しかし沈黙した。かわりに、「あの男は、成功した」といった。ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閤へのなによりもの馳走になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって三成などの寵臣までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめをうしなう。かつは置き残して行った寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである
20090108215000


